昭和花あらし-29、おはなさんとの再会。2024年7月26日
「昭和花あらし-29」高度成長真っ盛りの昭和42年の初夏、私は東京から久留米へ墓参に行きました。
その時、私はおはなさんと20年ぶりに再会しました。
「孫夫婦が優しくしてくれるので、とても幸せです」
おはなさんは嬉しそうに話していました。
昔話を交わしているとふいに、おはなさんは誰にも話したことがない思いを打ち明けました。
「今でも夜中に、ずぶ濡れのイチが突然に帰って来たような気がして目覚めることがあります。
その時は孫たちに気づかれないように外へ出て、出征して行った通りを眺めます。当然ですが誰もいません。その後、イチが家に入れるように玄関の鍵を開けたまま床に戻ります。
横になると悲しくもないのに、枕が濡れるほど涙が流れます」
おはなさんは笑顔で話していました。
私は母親の悲しみは死ぬまで続くものだと思いました。
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久留米の墓のそばまで8月11日の空襲で焼夷弾が落ちた。
墓は無事だったが焼け焦げが残った。
母の義祖父甚平は墓は高価な石を使ったと話していた。
それで熱に耐えたのかもしれない。
墓地には早死した長兄の墓がある。
長兄の娘が博多にいるので、墓仕舞いはしないで済んでいる。
絵を描いていると軍靴やゲートルの実物を思い出す。
私の子供の頃までは、それらは実用品として山仕事などで用いられていた。映画「八つ墓村」など終戦後を扱った映画にはよく登場する。
軍靴はほぼ未使用品が子供の頃は古道具店などで売っていた。
長兄は勉強の成績は優秀だったが、ゲートルの巻き方は下手で教官からよく叱られていたようだ。
私は登山用に愛用していた。だから巻き方が上手く、緩むことは絶対になかった。
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