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2024年7月21日 (日)

昭和花あらし-22、昭和花あらし-23、二つ投稿。2024年7月21日

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「昭和花あらし-22」
日中戦争がはじまったころに、私は八幡で寿司屋とおでん屋を始めました。
それと同時に、私は家庭を持ちました。
夫は建設省の技官で、赴任地は九州各地を転々としていました。
そのためお店に専念することができません。
でも、母に店を任せることは絶対に無理です。
そこで、久留米からおはなさんに八幡へ来てもらいました。
おはなさんは働き者で優しく、お店を切り盛りするには適任でした。
おかげで、製鉄所の職員たちで大変に繁盛しました。

母は保証人に懲りて二度と引き受けることはやめました。
しかし、世話好きの性格は変わりません。
母が拾ってきた居候が3.4人、八幡の店にはいつも滞在していました。
朝、私が階下の店に行くと、いつも知らない若者たちが朝食を食べていました。

文学青年、趣味で虚無僧をしている人、おかま、様々いました。一番長くいたのは南九州の裕福な漁師で、短くても1ケ月、長い時は半年ほど居候をしていました。

八幡の店は、どう見ても戦争向きではない若者たちの楽園になっていました。その自由な雰囲気の中にいると戦争が遠い出来事に思えて、とても安らぎました。

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母が一緒になったのが私の父だ。
父は贅沢好きで忍耐力がなかった。母は最悪の男と結婚したが、その結果、私が生まれたわけだ。母にとって私がいて、最期を看取ってくれたのは極めて幸運だったはずだ。
父は体も小さく風貌も悪かった。それでも母が結婚したのだから、私には理解できない良い箇所があったのだろう。

父の伯父は黒田藩の下級武士だったが国学を極めていた。それで明治維新で勲功をあげ、福岡県の官吏としてトップまで出世した。母の話では、門構えのある広大な邸宅に住んでいたようだ。

しかし、その妹である私の祖母は、京都から流れてきた友禅染め職人に騙され、父を孕まされて逃げられた。
私生児である父は一門の恥だった。
そこで伯父は人に頼まれて、一族が絶えかけた篠崎の姓を父に受け継がせた。だから、篠崎と私は血のつながりはない。

祖母を捨てた実の祖父の腕は大変に良かった。しかし京都に居づらくなって流れ職人に身を落とした。
母は彼の作品を下関の親戚宅で見ている。それは惚れ惚れするほど素晴らしい名品だったようだ。祖父は真面目にやっていれば京都で友禅染で名を残したかもしれない。

母の母親も染物屋の娘で図案が得意で久留米で評判だった。今なら女性デザイナーだ。私の絵の才能はそのような両親の祖先から受けついだものかもしれない。

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「昭和花あらし-23」
日中戦争は日に日に悪化しましたが、八幡は軍需景気で活気がありました。
昭和16年末、太平洋戦争が始まりました。居候の若者たちは徴兵されて次々と消えていきました。
食料統制は厳しくなり、昭和17年に店をたたみました。

夫は海軍士官待遇でアッツ島の飛行場建設のために徴用されました。
「立派にお国のために死んでください」
私は励ましたつもりでしたが、夫は複雑な顔をしていました。
しかし、夫は運が強く、乗船予定の輸送船が次々と潜水艦に沈められ、赴任できない間にアッツ島は玉砕してしまいました。

夫は次に、日田山中での国策灌漑用水路工事の指揮を指示されました。
私たちは食料事情が良いそちらへ疎開を兼ねて引っ越しました。

母とおはなさんは久留米へ戻りました。
久留米は軍事施設や工場が多いのに空襲はありませんでした。

昭和18年、いっちゃんのお嫁さんが妊娠したと聞きました。
おはなさんは初孫ができると大喜びしていました。

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当時、海軍士官は大変に人気があったので、母はかなり嬉しかったようだ。しかし、父が乗船予定の輸送船はブルドーザーや資材を満載したまま潜水艦に沈められた。

後年、アッツ島で戦死された軍医の子息で大手電器メーカーの社長をされていた方と知り合った。その方とは今も年賀状のやり取りをしている。

医師として世の中の役に立つ方が戦死し、何の役にも立たない父が生き残る。何と皮肉なことかと思った。戦争は「もし・たら」ばかりが重なるもののようだ。

八幡の母の店があったあたりは、昭和19年、大陸から飛んできたB29の爆撃をうけた。だから、いずれにしても店の維持は難しかった。

父の灌漑用水路工事は日本人の男たちは戦争へ行って払底していたので、朝鮮半島から労務者を集めた。いわゆる、韓国が強制徴用と決めつけているやつだ。その実態は、彼らは高給に惹かれて家族連れで来日していた。

彼らは工事現場近くに集落を作って暮らしていた。
母は毎日のように集落へ行って、彼らの家族と親しく付き合った。
国策事業なので食料は十分に配給されていた。
直接彼らと接してきた母によると、食料は自分たちより潤沢で、砂糖でも油でも魚でも、何でも揃っていたと話していた。

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