「昭和花あらし」37〜46ページ掲載。2024年9月6日
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財閥の息子から自宅に食事に招待されたことがあります。
「もし上海へ行くことがあったら、必ず私の名を出してください」
彼は上海に所有しているホテルの名を教えてくれました。
それで上海へはいつか行ってみたいと思いました。
水泳好きだった私は東京ではお台場で泳ぎました。
私は日焼けをすると赤くなりヒリヒリします。
それで曇った日を選んで泳いでいました。
ある日、水泳中に肌寒い雨が降り始めて、夏風邪をひきました。
なかなか快癒せず微熱が出て咳が止まりません。
病院へ行くとレントゲンを撮られ、結核と診断されました。
当時の結核は治療薬がありません。
海岸や高原の清涼な空気の中で、栄養のあるものを食べ、のんびり過ごすのが唯一の治療法でした。
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私は稲毛のサナトリウムに入院しました。
「これで自分の一生は終わった」
と泣けて泣けて仕方がありませんでした。
でも入院してみると意外に楽しく過ごせました。
治療は解放療法で、昼夜、清浄な大気の中で過ごすのが原則でした。
美味しいものを食べ、病室のベランダで好きな絵を描いたり編み物をしたりして過ごしました。
それは私にとって天国みたいな生活でした。
毎日、手袋やショールなど編み、できたものは片っ端から人にあげて喜ばれました。
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おかげで日に日に回復し、十ケ月後に退院しました。
「またいつでも入院してね」
看護婦さんたちは名残惜しそうに見送ってくれました。
しかし、庭の木陰から同室の女性が恨めしげに私を見ていました。
その冷たい視線は今も忘れられません。
彼女は日に日に悪化していましたので、助からなかったかもしれません。
病院から一直線に久留米に帰りました。
久留米では、とんでもないことが起きていました。
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母は頼まれると簡単に人の保証人を引き受けていました。
それが積み重なり、母は高利貸したちから五十万円の返済を迫られていました。
それは今のお金で三億円ほどです。
私は帰郷する列車の中で解決方法を考えていました。
債務者が逃げたのは世界的な大恐慌の影響がありました。
久留米に帰ってから、私は母を騙して逃げた債務者たちを捕まえ、お金を回収しました。
しかし、全部合わせても債務の十分の一の五万円だけでした。
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債権者の高利貸したちを一室に集めて言いました。
「あなたたちは母を利用して詐欺師たちにお金を貸し付けました。
本来なら支払う責任はありません。でも、私の好意で五万円だけ支払います。納得できないなら一円も支払いません」
実は母の交友関係に九州の侠客たちがいました。
私はその時初めて彼らに協力してもらい五万円を回収しました。
高利貸したちはその経緯を熟知していましたので渋々納得しました。
もっとも五十万円のほとんどは積み重なった金利です。
彼らは大きな損を被ったわけではありませんでした。
今回は何とか解決しましたが、簡単に他人の保証人になってしまう
母がつくづく嫌になっていました。
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