「昭和花あらし」87〜92ページ投稿、これで完了しました。2024年9月11日
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お花さんは笑顔で話していました。
私は母親の悲しみは死ぬまで続くものだと思いました。
「みんな先に逝ってしまいましたが、私は長生きできました。
生きていれば辛いことに沢山出会います。でも生きているのは、かけがえがないほど愛おしいです」
お花さんの話を聞きながら、私はふいに大正七年の花見の宴で踊り続けていたお花さんの姿を思い出しました。
一生は何もかも忘れて踊り続けるのと似ています。
お花さんの幸せな笑顔を眺めていると、そう思えてなりませんでした。
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心残りだったことは、お花さんと会って全て終わりました。
昭和五十年、
再会から八年後にお花さんは孫夫婦に看取られて、穏やかに一生を終えました。
完
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この物語の語り手「私」は私の母だ。母は2010年私が在宅で看取った。享年97歳。本文に書いたように母は養女で祖母との血の繋がりはない。祖母の実父甚平は若い頃は血気盛んだった。西南の役では西郷軍に従い自決した西郷さんの遺体と対面している。母が知っている甚平は寡黙で極めて温厚な料理好きの老人だった。甚平は家事一切やったことがない祖母に代わり幼い母を育てた。母は晩年まで甚平を深く敬愛していた。
祖母は顔を売るのが大好きだった。七歳の頃、甚平に嘘をつき三十円を得て駄菓子屋を買い占め、近所の子供達に菓子を与え子分にした。母も小学校ではガキ大将で、男の子たちを子分にしていた。その性格は祖母に似たのかもしれない。
写真の母は十歳。一人で写真館に行きツケで撮ってもらった。代金は後日、祖母が支払った。
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遊郭に義父の愛妾がいた。彼についてはよく分からない。遊び人で趣味は芝居小屋の小道具作りだった。母は義父から手芸を教わった。いずれにせよ、母は世間とは真逆の育てられ方をした。
この語り手の母の介護を私は八年間続けた。毎日自然公園まで車椅子で連れて行ったが、押している間の会話に窮した。すると突然、母はお花さんが桜の宴で踊り続けていた話をはじめた。それが画文「昭和花あらし」を描くきっかけである。
写真は若い母。
スケッチは母の通夜をしながら描いた。
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