「昭和はなあらし」29〜36ページ投稿。2024年9月5日
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昭和に入りました。私は女学校へ進学しましたので、イッちゃんやお花さんと会うことは減りました。
イッちゃんは高等小学校を出るとすぐにゴム工場で働き始めました。
お花さんは猪太郎さんの母親の世話を優しく続けていました。
イッちゃんが働き出したので、お花さんは楽になりました。
間もなく世界恐慌が始まりました。
その中で、甚平さんと義父が相次いで亡くなりました。
その頃の母は人の保証人を引き受けては、
不用な借金を重ねていました。
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お花さんの姑が亡くなりました。私が弔問に行く途中、物陰で泣きながら手を合わせている猪太郎を見かけました。
私は大人になっていましたので、猪太郎さんは気づきませんでした。
お花さんの家では、祭壇の前でイッちゃんが大泣きしていました。
「猪さんは来たの」
母はお花さんに聞いていました。
お花さんは俯いて首を振っていました。
私は猪太郎さんを見たことは黙っていました。
葬儀に顔を出さなかったのは、猪太郎さんなりのけじめの付け方だと思ったからです。
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昭和六年、満州国が建国されました。
猪太郎さんは関東軍御用達の酒造会社に杜氏として高給で招かれました。
猪太郎さんは女と別れ一人で渡満しました。
それから間もなく、猪太郎さんは借金返済の一部にして欲しいと母にお金を送ってきました。
同封の手紙には「仕事が軌道に乗ったら、毎月お花とイチにお金を送ります」と書かれていました。
母はそのお金を手紙と一緒にお花さんへ渡しました。
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猪太郎さんはお花さんとイッちゃんへの約束を果たすことはできませんでした。
満州の寂しい地方で、長チフスに罹りあっけなく亡くなってしまいました。
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その頃、私はたびたび遊びに上京しました。
長期滞在する時は神田に家を借りました。
手芸が好きでしたので横浜石川町の手芸店へ輸入毛糸などを買いに出かけていました。
そのついでに、根岸の競馬場へも行ったことがあります。
横浜は楽しい街で、中国の財閥の息子など様々な人たちと知り合いました。
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