「昭和花あらし」67〜76ページ投稿。2024年9月8日
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夫は海軍士官待遇でアッツ島の飛行場建設のために徴用されました。
「立派にお国のために死んでください」
私は励ましたつもりでしたが、夫は複雑な顔をしていました。
夫は運が強く、乗船予定の輸送船が次々と潜水艦に沈められ、赴任できない間にアッツ島は玉砕してしまいました。
夫は次に、日田山中での国策灌漑用水路工事の指揮を指示されました。
私たちは食料事情が良いそちらへ疎開を兼ねて引っ越しました。
母とお花さんは久留米へ戻りました。
久留米は軍事施設や工場が多いのに敗戦寸前まで空襲はなく、生活は大変でしたが平穏でした。
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昭和十八年、戦争は厳しくなって行きました。
私たちは日田山中の村長宅の離れで穏やかに過ごしていました。
イッちゃんのお嫁さんが妊娠したと母から手紙がきました。
お花さんたちの穏やかな日々が目に浮かびホッとしました。
昭和十九年の正月が過ぎた頃、お花さん念願の初孫の男の子が生まれました。
でも、お嫁さんは産後の肥立が悪く、寝込んでいると聞き心配でした。
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一月の終わりに母から、お嫁さんが亡くなったと連絡が来ました。
私はすぐに久留米へ戻り、母とお通夜に行きました。
イッちゃんは鎮痛な面持ちで生まれたばかりの赤ちゃんを抱いていました。
深夜、みんなが押し黙ってお酒を飲んでいると、突然に玄関が激しく叩かれて、イッちゃんに赤紙が届きました。
赤紙は弔問に来ていたイッちゃんの上司が玄関で受け取りました。
「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」
敬礼をしている配達員の十代の少年から、上司は無言で受け取っていました。
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翌日の葬儀とイッちゃんの出征の日が重なりました。
イッちゃんは喪服に襷をかけて見送りの人たちに深々と頭を下げていました。
「卑怯者と言われても良いから、生きて帰りなさい」
私はイッちゃんに言いました。
すると婦人会会長が「非国民」と私を叱責しました。
その人は昔、母が昔保証人を引き受けたことがある人です。
「誰か知らんけど、知らん間に偉うなったね」と母が言うと彼女は黙りこみました。
その時、母の非常識な性格も役立つことがあると思いました。
イッちゃんは葬儀の場から同僚たちと、久留米師団へ出征して行きました。
今も、お花さんが小さな赤ん坊を抱いて歯を食いしばって見送っていた姿が目に焼き付いています。
入営三ヶ月後に、イッちゃんは輸送船で南方へ送られました。
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輸送船は夜のバシー海峡で米潜水艦の攻撃を受け撃沈され、イッちゃんは戦地にたどり着く前に戦死しました。
訃報を聞いた時、イッちゃんが羽織袴で出征したのは自分の葬儀のつもりだったのだと思いました。
人手不足でしたのでお花さんの仕事はいくらでもありました。
でも、配給だけでは生活できません。
赤ん坊のために闇で食糧を買うので、お金はいつも足りませんでした。
それでもお花さんは赤ん坊を背負って一生懸命に働き続けました。
その頃の私たちは自分が食べるだけで、精一杯で助けることはできませんでした。
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