上善は水の如し、前後を際断せよ、太陽がいっぱい。2024年9月16日
上善如水・上善水の如し。水は世の中で一番強くすぐれたものだ。小さな流れでも、次々と合流して奔流となる。決して水と水とは対立することはなくねすぐ混ざり合って一つになる。だけど岩は違う。岩と岩がぶつかれば合体することなく砕け散る。
水はどんなに小さな隙間でも自身の形を変えてすり抜ける。
どんなに複雑な形でも、水はピタリと馴染み静かに平らかになる。
水はどんなに固い岩でも、少しずつ削り取って消し去ってしまう。
沢庵禅師の言葉に「前後際断」がある。意味は「 過去をくよくよ引きずらず、未来を憂えて取り越し苦労をせず、今に生きたが良い」ポチは久しぶりに散らかった部屋を掃除する気になった。そこへ小春じいとタマがやってきた。
小春じい「ゴミや埃で死ぬことはない。掃除はやめて出かけよう」とポチを月見に誘った。
18日水曜は満月だ。
過ぎてしまった嫌なことは忘れ、明日のこを悩むことも止め、とりあえず美しい満月を楽しもう。
「太陽がいっぱい」1960年仏+伊映画。米国富裕階級の息子フィリップは貧困から這いあがろうとしているトム=アラン・ドロンを軽蔑し人扱いさえしなかった。その結果、トムには強い殺意が生まれた。さらにフィリップの美しい恋人マルジュへの情欲。それらが絡んで、トムはフィリップとその友人まで殺して、財産とマルジェを手に入れようとした。
ラストシーンは海辺の簡素な店。
完全犯罪を成し遂げ、デッキチェアーに横になって満足気にグラスを口にしているトム。しかしその時、殺人が判明してトムを逮捕に刑事たちが店を訪れていた。
刑事は店の女主人にトムを呼ぶように言った。
「トムさん、お電話ですよ」
トムは笑顔で店へと歩いて行った。その後に眩しく陽光に照らされた海と小島と帆を掲げた漁船。その光景にあのテーマ曲が重なってFinの文字。この最後の5分だけでも見る価値がある。
この映画にアランドロンとテーマ曲がなかったら、ありふれた映画で終わったかもしれない。さほどにアランドロンの魅力は際立っていた。
日本で公開された頃、私は受験勉強など一切せず、毎日自転車で青島海水浴場へ出かけていた。沖合には太陽がいっぱいの宣伝用に漁船が係留されていた。私は泳いで行って甲板に寝転がり、眩しい太陽を見上げながらトムの気持ちを想った。
翌年、上京して芸大を受験した。私は受験生の誰よりも日に焼けていた。絵の実技には強烈な自信があったが、真っ黒に日焼けした受験生を受け入れるほど芸大は甘くはなかった。おかげで「太陽がいっぱい」は印象深い映画になってしまった。
ちなみにトムはイタリア語ではリプレーと呼ぶ。
だから、ラストシーンでのトムへの呼びかけの台詞は
「Signor Replay, telefono!」
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