「昭和花あらし」13から21ページまで掲載。2024年9月3日
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帰宅して、母にお風呂に入れてもらったことや、お花さんが働いていたことを話しました。
すると母は突然怒りだして、夕食前に家を飛び出して行きました。
ちなみに母は料理などの家事は一切やったことがありません。
食事はすべて料理好きの祖父甚平さんが作っていました。
夕食を済ませた頃に母は帰ってきました。
「お花さんを見受けすることにした」
母は甚平さんに話していました。猪太郎さんはお花さんをかたに、遊郭から大金を借りたようです。
五歳の私でも、大変な事態になっていることは感じました。
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翌日、私は母に連れられて猪太郎さんの家へ行きました。
家では、猪太郎さんのお母さんがイッちゃんの面倒を見ていました。
「猪さんは」母がおばあさんに聞きました。
「お花さんと一緒に出かけてから、一度も帰ってきません」
おばあさんは辛そうに、何度も頭を下げていました。
「猪さんがいるところは、おおよそ見当はつきます。
お花さんのことは私が何とかしますから、それまでこれでイッちゃんの面倒をお願います」
母は自分の財布を丸ごとおばあさんに渡しました。
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お正月前に母は見受けのお金を遊廓に支払って、お花さんをイッちゃんの元へ帰しました。
「千代しゃんがお花さんを身受けした」
町では大評判になりました。顔を売るのが大好きだった母は鼻高々でした。
その頃、杜氏の仕事をしくじった猪太郎さんは、他の女のところに転がり込んでいました。
だからお花さんはとても切なかったと思います。
それで花見の宴で踊り続けたのかもしれません。
「おっかさんまで押し付けられて、こんなことなら遊郭にいた方が楽だった」
と母に文句を言っていたことがあります。
でも本心ではありません。
お花さんはいつも優しく姑の世話をしていました。
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花見の宴の後、母が焼き鳥を食べに連れて行ってくれました。
店に入ると若い女店主と猪太郎さんがいました。
母と猪太郎さんは外へ出てしばらく話していました。
私は焼き鳥を食べながら話が終わるのを待っていました。
帰る時、猪太郎さんと女店主は深々と頭を下げて見送っていました。
帰宅すると母は甚平さんに焼き鳥の折り詰めを渡しました。
「猪太郎の所へ行ったのか」甚平さんが聞きました。
「博打はやめたけど面目なくて帰れない、って泣いていた」
「面目ないないから帰れないか。馬鹿なやつだ」母と甚平さんとの会話はそれだけで終わりました。
甚平さんは西南の役では城山まで西郷さんに従ったほど血の気が多い人でした。
でも、私が知っている甚平さんはとても温厚で寡黙な人でした。
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大正九年、私は小学生になりました。
弁当をもっていかなかったので、お昼に職員室に行って電話を借りました
「ライスカレー一つ、小学校へ持って来て」
食堂に電話をしていると先生が飛んできて、すぐに出前を断りました。
「明日から、お母様にお弁当を作っていただいてください」
私は先生が言っている意味がわかりませんでした。
でも翌日から、甚平さんが
弁当を作ってくきれました。
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