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2024年9月10日 (火)

「昭和花あらし」77〜86ページ掲載。2024年9月9日

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 昭和二十年に入ると、各地で空襲が始まりました。
私たちがいた日田の山中からも北九州の空襲が見えました。誰も信じてくれませんが、探照灯に捉えられたB29がキラキラと光って見えました。
その下で沢山の人が亡くなっているのに、私たちには焼夷弾に燃える明かりが別世界の出来事のように思えました。戦争は被害を受ける当事者でないと、なかなか理解できないものだと思いました。

 初夏の頃、苦労続きのお花さんを慰労しようと、天ヶ瀬温泉に宿をとりました。
当時の旅館は米を持参しないと泊めてくれませんでした。
夫が国策事業を指揮していたおかげで、その頃は少しゆとりがありました。
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お花さんと赤ちゃんと私たちは川辺の露天風呂にのんびり入りました。
すると突然お花さんが大きな声で「グラマンが来る。みんな逃げよう」と赤ちゃんを抱いてお風呂から飛び出しました。
すぐにブルブルと飛行機の轟音が谷間に響きました。
私は母の手を強く引いてお花さんの後に続き岩陰に隠れました。
すぐにグラマンが現れ、
機銃掃射をして露天風呂の柴垣が粉々に吹き飛びました。
グラマンは引き返して来て、岩陰に隠れていた私たちに再度機銃掃射しましたが助かりました。
「操縦士がニヤニヤわらいながら撃っていた。いやらしいやつ」
母は怒っていました。
浴衣を身につけて落ち着くと、みんなの顔は土だらけでした。
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命が助かると何故か笑いが込み上げてきました。
私たちは泥だらけの顔を見合わせて大笑いしました。
でも一瞬でも遅れていたら、20ミリ機関砲で粉々になっていました。
いち早く気づいたお花さんに感謝すると「グラマンに気付けたのは、この子のおかげです」と話しました。
子供を守りたい気持ちがお花さんの聴覚を鋭敏にしたのだと思います。

 この時母は、私が強く手を引かなかったら死んでいました。
この母の慌てない性格は昔から変わりません。
義父の臨終が迫った時も母はのんびり風呂に入っていました。
「父ちゃんが危ないよ」と知らせると「風呂から出るまで死ぬのを待ってもらっといて」と出ようとしませんでした。
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 終戦四日前に久留米は空襲されました。久留米が空襲される噂は二ケ月前からありましたので、母は日田へ疎開していました。
母はすぐに久留米へ駆けつけました。
一帯の家は焼失していましたが、お花さんと赤ちゃんは無事でした。

 昭和二十年八月十五日、戦争が終わりました。夫はつまらないことで役所の上司と喧嘩して辞職し、博多で闇商売に熱中しました。
私と家族は八幡の店に居候をしていた南九州の漁師から「米以外なら食べ物は何でもある」と熱心に誘われ、その町へ引っ越しました。
博多に残った夫はサッカリンや自転車の部品で一時は大儲けしました。
しかし、生来の贅沢癖のために使い果たして、昭和二十三年に漁師町に転がり込んできました。
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 高度成長真っ盛りの昭和四十二年の初夏、東京暮らしをしていた私は久留米へ墓参に行きました。
その時、お花さんと二十年ぶりに再会しました。
「孫夫婦が優しくしてくれるので、とても幸せです」
お花さんは嬉しそうに話していました。
昔話を交わしていると、お花さんは誰にも話したことがない心の内を打ち明けました。
「今でも夜中に、ずぶ濡れのイチが突然に帰って来たような気がして目覚めることがあります。その時は孫夫婦に気づかれないように外へ出て、出征して行った通りを眺めます。当然ですが誰もいません。
その後、イチが家に入れるように玄関の鍵を開けたまま床に戻ります。
横になると悲しくもないのに、枕が濡れるほど涙が流れます」


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Hana

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