漫画のためのシナリオ・仮題「赤い野いばら-1」2024年11月20日
台風は一晩中吹き荒れて、明け方に過ぎ去った。
カナはよく眠れなかった。
カーテンを開けて庭を見下ろすと、小枝や木の葉が散乱していた。
雲一つない青空だ。思い出したように風が吹き抜け、楠の梢がきらめいた。
被害はほとんどない。高校受験の早朝補習は予定通り行なわれそうだ。
カナは階下に降りてシャワーを浴びた。
冷えた体にバスタオルを巻くと心地よかった。
ぼんやりと鏡の前に座った。
疲れた青白い顔に、肩までの長い髪が重苦しく見えた。
夏の間、何度も短く切ってしまおうと思ったが、その勇気はなかった。
髪をアップにすると、襟足がいつの間にか大人びていて戸惑った。
髪型を幾度も変えてみたが、どれも気に入らなかった。
いつまでも決められない自分が嫌になった。
カナが浴室から出てこないので、母が様子を見にやって来た。
「いつまで、鏡の前にいるの? 朝ご飯、食べないならかたずけちゃうよ」
カナはあわてて髪を元に戻した。
「あら、アップも似合うじゃない」
鏡の中で母が微笑んでいた。
そう言われると似合っている気がするが、自信はなかった。
「可愛くない。ふけてる見える」
カナは不満げに言った。
「そんなことない。地味にしたほうが若く見えるものよ」
母は手早くカナの髪をまとめ、自分の髪飾りを外して付けた。
髪飾りはべっ甲模様のプラスチックだ。
子供の頃、それを透かして見える、琥珀色の世界が大好きだった。
「ほら、私よりカナの方が似合ってるでしょう」
「そうかな。うなじが白すぎて気持ち悪い」
「気持ち悪いだなんて、ぜいたく言ってる」
母は忙しそうに台所へ戻って行った。
母に誉められると、その髪型が似合っている気がした。
襟足を出すのは、三つ編みにしていた小学生以来だ。
カナは台所へ行って母に聞いた。
「髪飾り、借りていてもいいの?」
「大切にしてくれるなら、いいよ。
それより早く食事をすませなさい。補習に遅れるでしょう」
補習授業は八時に始まる。
遅刻しそうなのに、カナはふたたび迷いはじめた。
《やっぱり、元に戻そうかな》
髪をくずそうとした時、部屋のすみをネコのチロが鈴を鳴らして横切った。
チロは茶色の毛玉をくわえていた。
チロ!待ちなさい!」
チロは食器棚の後ろに隠れようとして体が挟まり、足をばたつかせていた。
捕まえて引っ張り出すと、チロはうなりながら何度もカナの手を蹴った。
《小鳥だったらどうしよう》
胸の動悸が早くなった。
嫌がるチロの口に指を入れると、柔かなものに触れた。
カナは目をつぶって恐る恐る引き出した。
《なんだ、ウサギの尻尾か》
それは同級生のトオルがくれたキーホルダーの飾りだった。
いつもカバンに付けていたのに、いつの間にか毛玉だけが失くなっていた。
《犯人はチロだったのか》
よだれで濡れた尻尾を眺めていると、チロは逃げて行った。
チロと追いかけっこしたおかげで、沈んでいた気分は消えていた。
時計を見ると七時を過ぎている。カナはあわてて食卓についた。
トーストをほおばっているとスマホが鳴った。
トオルからだった。
サッカーに熱中しているトオルは、補習授業を受けていない。
だから、夏休みに入ってから、一度も会っていなかった。
「これから海へ行かないか。
台風の後は、魚とか珍しい貝とか打ち上げられていて面白いよ」
トオルの声を聞くと、無性に会いたくなった。
カナも台風が過ぎた海辺を見たかった。
補習授業は休むことにして、待ち合わせの場所を聞いた。
母は流しで洗い物をしながら、会話を聞いていた。
「トオルちゃんと海へ行くの?」
「今年は一度も海へ行っていないから、反対しても絶対行くからね」
勢い込むカナを見て、母は笑った。
「反対なんかしないわ。でも、危ないから海には入らないでね」
「クラゲがいるから、海には絶対に入らない」
去年、土用波のあとの海に入って、電気クラゲに刺されて酷い目にあった。
カナは手早くサンドイッチを作って、バスケットに詰めた。
そして玄関を駆けぬけ、自転車に飛び乗った。
待ち合わせの公園に着くと、トオルが待っていた。
髪型を変えたカナを見て、トオルは一瞬、驚いた。
しかし、すぐに笑顔に戻った。
「私の髪型、変?」
「変じゃないけど、大人っぽい」
「それって、ふけているって言うこと?」
「違うよ、とても似合っている。でも、うまく表現できない」
いつものカナだったら、トオルの態度など気にしなかった。
「可愛いって言え」と無理強いしていたはずだ。
しかし、今日は無邪気になれなかった。
それをきっかけに、カナは無口になった。
カナの雰囲気に押されるように、トオルも無口になった。
二人は黙々と、朝の光に輝く白い道を進んだ。
海への道は畑や雑木林をぬって続いていた。
雨に洗われた山ユリや野イチゴが、鮮やかだった。
路傍には、雨に流された赤土が縞模様を作っていた。
サイクリングは快適だった。
時折、道路補修の作業車とすれ違うだけで、対向車はなかった。
広い道路を二人は独占していた。
トオルは自転車を蛇行させたり、手放しで走ったりと楽しそうだった。
それとは反対に、カナは更に気分が落ち込んで行った。
トオルに話しかけられても「うん」とか「そう」とか、気のない返事を続けた。
小一時間ほど自転車を走らせると、峠への上り口に着いた。
二人はその傍に流れる小さな沢で休んだ。
台風で増水した沢の底で、木漏れ日が揺れていた。
二人は靴を脱いで、流れに素足を浸した。
カナは沢水でハンカチを湿して、汗ばんだ首筋をふいた。
トオルはカナに気後れを感じた。
記憶にあるカナのうなじは、もっと色黒で華奢で筋張っていた。
それが少しの間に、大人っぽく変化していた。
トオルの戸惑いを、カナは気づかないふりをした。
そして、髪飾りを外して長い髪を下げた。
トオルは何となく、安堵したように見えた。
二人は言葉を交わさないまま、自転車に乗った。
峠を上り切ると、濃紺の海が見えた。
二人は海辺の黒松林まで一気に駆けおりた。
台風の後の砂浜に海水浴客はいなかった。
時折、流木を拾いにきた、地元の子供たちを見かけるだけだった。
松林の木蔭の砂地はまだ湿っていた。
二人はシートを広げて食事の支度をした。
お昼まで時間はあったが、二人は空腹を我慢できなかった。
カナは先程までの不機嫌は、空腹のせいだと思った。
今朝はトーストを半分口にしただけだ。
急いで作ったサンドイッチも、トオルが持ってきたおにぎりも、とてもおいしかった。
二人は満腹すると、いつもの快活な十五歳にもどっていた。
食後、二人は砂浜で遊んだ。
波打ち際には、ヒトデや、貝や、海草が無数に打ち上げられていた。
カナは美しい貝を探した。
トオルは海草を裏返して、小魚や小エビを見つけて喜んでいた。
その後、砂の城を作って貝殻で飾った。
そのような子供っぽい遊びが無性に楽しかった。
いつも重く心を占めていた高校受験のことや、将来の進路のことから、二人は久しぶりに解放されていた。
午後、太陽が少し傾いて、松の木の影が長くなった。
遊び飽きて、何もすることがなくなった。
二人は、ぼんやりと海を眺めた。
波頭が繰り返し押し寄せ、薄緑のガラスのように透き通っては白く砕け散った。
海はゆっくりと時を刻む、巨大な時計のように思えた。
トオルはシートに大の字に横になった。
そしてすぐに、軽い寝息をたてはじめた。
少し会わないうちに、たくましくなっていた。
カナはトオルの腕を枕にして、横になった。
頭の下に、トオルを感じているのが心地よかった。
傍らを見ると、季節外れの野いばらの白い花が数輪、海風に揺れていた。
カナは絶えがたい眠気を覚えた。
潮騒は遠く消え、いつの間にかカナは深い眠りへ落ちていた。
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