2006年10月15日 (日)

元気が出る商店街    2003年11月13日

駒込病院から駒込駅の途中に商店街がある。通りを歩いていると「元気の出る駒込駅前商店街でお買い物を」と販促のアナウンスが流れていた。しかし、通りは櫛の歯が抜けたようにシャッターが閉まり人通りは疎らである。このような放送や、景気づけの賑やかな曲を流すようになると商店街は終りである。我が家の向かいにあった公団1階の商店街も、駅前にスーパーが進出してから閑古鳥が鳴き始め、一昨年あたりから同じように販促の曲やアナウンスをしていた。しかし、客足は回復せず今年初めには総ての商店は撤退してしまった。

昔、水戸美術館の帰り、近くにあった動物園に寄った。私の他客のいない園内に大音響の音楽が流れていて落ち着かなかった。季節は今頃で寒い雨が降っていて、あの侘びしさは今もありありと思い出す。

「元気が出る商店街」と聞くとすぐに熊野前商店街を思い出す。昔、 TV番組「天才たけしの元気が出るテレビ」で寂れた商店街を元気にする企画があった。その舞台になったのが熊野前商店街で都電荒川線の町屋近くにある。一時は物珍しさに若者が殺到したが、たけし軍団の講談社なぐり込み事件等で番組は終わり、直ぐに忘れられた。
「元気が出る商店街」の看板はたけし人形と一緒に暫く商店街入り口に飾られていた。お酉さんへ行く時、荒川線の都電の車窓からその看板がよく見えた。しかし、いつの間にか薄汚れた看板とたけし人形は撤去された。先日、お酉さんの帰り車窓から商店街を探したが商店街の灯りすら見えなかった。

「天才たけしの元気が出るテレビ」は好きな番組で欠かさず見ていた。松方弘樹がバラエティーに出るきっかけの番組でもある。彼はこの番組で女性の好感度が急上昇したが、仁科明子との離婚問題で急下降した。

自分で元気だと言いふらしている時は本当は元気ではない。ディズニーランドや賑わっている繁華街などでは景気づけはしないものだ。

2006年10月13日 (金)

幻臭    2003年10月17日

赤羽自然観察公園では強い日差しが草むらを照らしていた。その中を歩いていると、不意に肥やしの匂いを感じた。実際に匂いがしたのではなく幻臭である。
他にも幻臭は色々感じる。たとえば、野いちごの甘い香りやドイツハムのハーブの香りとかである。どれも幼年時代に嗅いだもので、心の奥底に強く記録されているものだ。

匂いは頭の中で自発的に再現はできないものらしい。たとえば、リンゴの色形を思い浮かべることはできるが、香りを頭の中に思い浮かべることはできない。しかし、リンゴの香りを嗅げばすぐにそれとわかる。香りの感覚は不思議なものだ。
私の場合、匂いは視覚によって蘇る事が多い。日差しの強さ、少し枯れ始めた草むら、それらの情景が田舎で暮らした幼年時代の記憶を蘇らせる。昔は日本中、田園地帯に行くと必ず漂っていた。以前、地方出身者を田舎臭いとか、肥やし臭いと呼んでいたが、今思うと本当だったのかもしれない。
最近は街の香りが少なくなった。私の育った漁師町は機械油と魚の匂いを嗅ぐと蘇る。上京してからの印象深いのは横浜中華街の八角の香りである。これは田舎出の私には強烈にエキゾチックであった。

香りが消えたのは街全体が清潔になった所為だ。昭和40年中頃までは隅田川はドブの悪臭がしていた。知人の浅草の職人さん宅を訪ねた時、漂うドブの匂いに閉口したことが、今になると懐かしい。

花イカダ    2003年10月16日

赤羽自然観察公園では北米原産のセイタカアワダチソウが満開である。
この花が蔓延し始めた頃、花粉アレルギーの原因として社会問題になっていた。しかし今では、セイタカアワダチソウは殆ど花粉アレルギーを起こさないことが分かった。昔は生け花材料として売られていたくらいだから花としては美しい。ススキと競うように咲き乱れている様は新しい秋の風景である。

研究者によると、荒れ地に進出したセイタカアワダチソウは開墾者のように荒れ地を肥沃にする。そして、肥沃になった土地に後から進出して来た在来種の草花との競争に負けて消えていく。まるで開拓者のような、けなげな花である。

公園には花筏の可愛い実が二つだけ残っていた。毎日眺めているが、葉の中央に唐突に花をつけ丸薬のような実を結ぶ様は何度見ても不思議だ。花イカダの命名も大変良い。
「大犬のふぐり」という草花があるが、美しいブルーの可憐な花にどうしてそのような無粋な名を付けたのか首をかしげる。もし、同じ感覚で花筏に「狐の丸薬」とか「大犬の黒いぼ」とでも名付けていたら、このように愛されたかどうか疑問である。
エーデルワイスも名前で得している。その産毛の生えた容姿は、昔の日本人なら「山猫の小耳」と名付けそうだ。この西洋名はロマンチックで得している。

2006年10月12日 (木)

稲刈り    2003年10月4日

赤羽自然観察公園の田圃は稲刈りが終わり稲架に干してあった。冷夏で実りが心配だったが、9月になってからの暑さで持ち直したようだ。ここでは昔ながらの人手で稲刈りをしている。この風景は、今、山村の秋を描いているので参考になる。現在の農家はいきなりコンバインで稲刈りから脱穀までしてしまうので、この風景は農村に行っても見られない。

私が育ったのは漁師町だったが、クラスに農家の子供も少しいた。私は級友の田圃へ刈り入れの手伝いに行ったことがある。手伝うのは鎌で刈って稲わらで束ね稲架にかけるまでの作業である。私は自分で研いだ鎌で稲株をサクサク刈って束ねた。その達成感は50年経った今も覚えている。

稲架で乾し終えた稲束は大人が足踏み脱穀機にかけた。脱穀機はU字形の太い針金が無数に植えられた木製の円筒が回転して稲穂から籾をむしり取る。片足での作業は一日休み無く続き、子供心に重労働に思えた。そのウワーンウワーンとうなる音は懐かしい。
その後、籾は手回しの唐箕-とうみ-にかけて藁屑を吹き飛ばし、むしろに広げて干され、ドンゴロスの袋に詰められて農協や精米所へ送られた。籾や精米を保管する農協の石作りの倉庫は西欧的で、エキゾチックな感じがした。

しかし、農村の機械化は早く、昭和30年初頭には簡単なコンバインが登場して足踏みの脱穀機も手回しの唐箕もすぐに使われなくなった。しかし、農家に遊びに行くと納屋にそれらの木製の農具が大切にしまってあった。私達は手回しの唐箕の風車を回して遊んだ。木製の機械には何とも言えない暖かさがあって、とても楽しかった。

2006年10月11日 (水)

虚空蔵島  2003年10月1日

10月になったのに暑い。Tシャツでも汗をかいた。
緑道公園では近所の小学生がスケッチ大会をしていた。子供の絵は楽しい。男の子達が墓の絵を描いているのが可笑しかった。描き飽きた男の子達はバッタ取りに夢中になっていた。

子供の頃、私はスケッチ大会が大好きで、休日に小学校毎に10人程がグループになって大会場所へ出かけた。スケッチ大会が開かれた場所の一つは南九州の南郷町目井津にある虚空蔵島である。島と言っても浅瀬で陸と繋がっていて、堤防を兼ねた通路で渡ることができた。島は名前の通り虚空蔵菩薩を祭った神域である。亜熱帯の原生林の中に古い社があり、虚空蔵菩薩の使いとされるカラスが多く住み着いていた。虚空蔵島を繋ぐ堤防の一角には壊れた海軍の施設が廃墟のように残っていた。

この地域は海軍基地が多かった。私の育った大堂津には震洋特別攻撃隊基地があった。震洋特別攻撃隊とはベニヤで作られたボートに爆薬を積み敵艦艇に激突する特攻隊である。大堂津港後方の崖にトンネルがあり、攻撃艇が収容されていたと聞かされていた。

結局、米軍の本土上陸はなく大堂津の特攻隊は出撃のチャンスないまま終戦を向かえた。大堂津の兵士の殆どは生還できたが、訓練中の事故死はあったようだ。仮に攻撃チャンスがあったとしてもベニヤ製のボートでは、小口径の機関砲で簡単に撃沈させられるので、戦果は難しかったと思う。

その地域は軍の基地が多かったので、グラマン戦闘機による機銃掃射は頻繁だった。上学年の子供の中には、機銃掃射に逃げまどった者が多くいた。大堂津と目井津の間を流れる細田川に架かるIR鉄橋には今も機銃掃射の穴が数多く残されている。

虚空蔵島のスケッチ大会へは細田川の渡し船で目井津側へ渡り、歩いて5,6分の距離にあった。船は平底の川船で、今でも対岸に着いた時の船底が砂の浅瀬へ乗り上げる感触を思い出す。
細田川にはアサリが無数にいて子供でも簡単にバケツ一杯は採ることができた。細田川の清流に生息するアサリは臭みもなくまるまると太っていてすこぶる美味であった。

渡しの船頭は都会でダンス教師をしていた人で戦火に焼け出されその港町に住み着いた。この地方はよそ者に優しく、終戦後、豊富な魚介類に惹かれて都会者が多く流れ着いていた。かく言うと私の家族もそのような流れ者の一つであった。ダンス教師の船頭はいつの間にかいなくなったので、本職に復帰したのだと思う。健在なら母程の歳である。

2006年10月 6日 (金)

マイツーホーで消し忘れ通報    2003年8月26日

母の病院帰りの車中、外は激しく雨が降っているのに夕日だった。赤羽駅手前の開けた場所から、東の空に虹が雨に霞んで見えた。不思議な光景である。
赤羽駅へ着くと直ぐに雨は止んだ。結局、電車に乗る前にコンビニで買った傘は役に立たなかった。気温は下がったが猛烈な湿気で汗が吹き出た。

赤羽駅前の商業ビル「アピレ」の入り口は道路より下にある。以前、集中豪雨の時、雨水が流れ込み一階と地下の店舗が水浸しになった。以来、雨が強いと警備員が慌てて入り口に防水壁を作る。しかし、今日は防水壁を作り上げたとたん雨は止んでしまった。前を通ると「何だ、やんじゃったよ。」と警備員達がぼやきながら防水壁を撤去していた。

夜、鳥のスープを作っていると東京ガスから電話が入った。消し忘れ通報である。我が家はマイツーホーが設置してある。これはガスメーターに設置された装置で、長時間、通ガスしていると警報が東京ガスへ入り、遠隔操作で止めるシステムである。それで、止める前に電話をして来た訳だ。聞くと私の使用時間設定が60分で、それを過ぎると警告するらしい。すぐに90分に変更して貰った。
我が家は老母がいるので、今までガスの消し忘れが心配だった。図らずも、このことで装置の機能が実証された。留守にした時も、電話やメールでもガスの消し忘れを確認できる。もし、消し忘れていたら、東京ガスから遠隔操作で止めて貰える。

2006年9月24日 (日)

ボヴァリー夫人    2003年5月4日

連休、姉が来て母の部屋を大掃除をして帰った。使っていない服や小物が山のように出て来たので捨てることにした。

ここへ引っ越した時に買った客用の布団も出てきた。この先、使う予定はなさそうなので、私が使っているのを捨て、客用の布団を使うことにした。捨てる布団はアメリカ製の鉄板でも切れる鋏で二等分してゴミ袋へ入れて捨てた。昔の綿の布団なら打ち直していつまでも使えるが、捨てるのは羊毛と化繊綿を組み合わせた布団で打ち直しが出来ない。

今日もジリジリと暑い。暑く静まり返った公園を歩きながら「ボヴァリー夫人」の世界を思い浮かべた。ボヴァリー夫人は中学の頃読んだ。明るい田園風景の描写が心に残っている。舞台はノルマンディーの寒村だが、いつの間にか私の気持ちの中で、南仏の明るい風景に変わっしまった。その頃、夢中で見ていたフランス映画の南仏風景とごちゃ混ぜになっているようだ。

誰かが優れた映画や小説は自分の過去になりうる、と言っていた。その言葉の意味がとても良く分かる。私は子供の頃見た映画のシーンを、自分が暮らした世界のように思い出す。

2006年9月23日 (土)

彫金のイモ鎚。2003年4月16日

ようやく歯の治療が終わった。かかっていた歯科医院はとても丁寧で、他医院なら手を着けない初期病変や取りにくい歯石まで完璧に治療してくれた。

ディズニーランド開園20周年で騒いでいる。私は5周年記念の時、何万人目かに当たり、ミッキーのペアウオッチを貰った。今、持っておけばプレミアが付いたかもしれないが、ペアウオッチの趣味はないので連れの女子にペアごとあげた。時折、ペアルックを街で見かけると私は気持ち悪くなる。

仕事机の片隅に小さな金槌が置いてある。彫金で一番大切な道具でイモ槌と呼んでいた。絵描きに転向するまでの25年間、他の仕事をしている間も失業保険のようにそのイモ槌が生活を支えていた。職人仕事はいい。時折、使い込んで掌の形に窪んでいるその柄を手にすると不思議と心が落ち着く。

ソ連の独裁者スターリンは元々靴職人であった。子供の頃からたたき込まれた技術は忘れがたいようで、政務に疲れると工房に篭もって靴作りをしていたそうだ。独裁者の彼は嫌いだが靴作り職人の彼はほんの少し好感が持てる。

イモ槌の柄は一度作るとめったなことでは取り替えない。それで柄は丈夫な樫を丁寧に削って作った。昔は樫材の専門店が日暮里にあって、そこで質の良い白樫の角材を手に入れた。角材は斧で筋目に逆らわないように割った。割った用材の中で柄の形に合った物を選び掌に合うように削ってイモ槌に使った。繊維が切れていない作りなので100年使っても折れることがない。

昔の木造建築が長持ちするのは用材を割って作っているからである。板も材木を割って手斧(ちょうな)で削って作った。今は鋸で強引に切るので繊維が斜めに切られていて割れやすい。

同様に昔はダイヤの原石も適当に割ってから宝石にカットした。だから昔のダイヤは割れにくかった。しかし今は、レーザーで強引にカットするので割れやすい。彫金をしている頃、そのような石に運悪くぶつかり数百万のダイヤを真っ二つに割ってしまったことが幾度かある。しかし当時は景気が良くて、割った石は御免なさいと謝ればそれで済んだ。
イモ槌を手にしていると昔のことを走馬燈のように思い出す。

唐傘の香りとこうもり傘の落下傘。  2003年4月1日

雨の中、母を散歩させる。フードに当たる雨音が唐傘の雨音に似ている。子供の頃は傘は唐傘ばかりだった。そう言えば傘張り浪人と言う言葉があった。竹の骨に和紙を張る浪人の内職である。張り終わった傘は問屋に納品されて桐油が塗られた。桐油は乾性油で酸化すると硬化する。今でもペンキの材料である。
油絵の草創期、手に入りにくいリンシードオイルやポピーオイルの代用にしたと聞く。余談だが、昔の画学生は幻覚作用があるからとポピーオイルで天ぷらを作って食べた。しかし、材料がケシだからといって幻覚作用は起きない。

唐傘は油紙の透過光が明るくて気持ちが良かった。下ろしたてを開く時のバリバリという油紙が開く音や桐油の香りが懐かしい。しかし、使った後は干さないとカビが生え、留め糸が切れてバラバラになった。

唐傘は子供達の格好の玩具でもあった。学校帰り、雨が上がると車輪のように地面を転がしたり、増水した小川の流れで水車のように回して遊んだ。しかし、こうもり傘と比べると風に弱く、強風の時はつぼめて唐傘お化けのようにして使った。

小学校の2,3年生になつた頃には、急速にこうもり傘が普及して、唐傘は消えてしまった。
こうもり傘は丈夫であったが、車輪にも水車にもならずつまらない玩具だった。ただ、落下傘代わりに、ビルから飛び降りるシーンが漫画によく出て来た。子供たちは、本当に落下傘代わりになると信じていて、私も小さな崖から傘を広げて飛び降りたことがある。しかし、期待通りにはいかず、一瞬で着地してがっかりした。

2006年9月18日 (月)

車椅子はタイムマシーン。 2003年2月15日

新河岸川の護岸の上で若者達が映画を撮っていた。ああだこうだとやり合いながら、熱っぽく撮影している姿が若々しい。そのような若者たちを見ていると、若さはいい、と思ってしまう。
やはり私は年を取ってしまったようだ。そう言えば最近、夜中に小用で目覚めるようになった。以前はそんなことは一度もなく、朝までぐっすり眠っていた。歯は丈夫なのが自慢で、堅い梅干しの種を楽々砕いていた。しかし、今ではとんでもない行為である。

母は夜中、3,4回は小用で目覚める。逆に、昼間はぱたりと止まってしまう。母を毎日自然公園へ連れていくのはリハビリだけでなく、車椅子で体を揺らし小用の出をよくする為である。だから、母との会話は小用と通じの話が多い。

私は自分が夜中に目覚めたり、歯が弱ったりしたことがショックで、始めの頃は病気ではないかと医学書を開いて右往左往した。しかしすぐに、老いは病ではないことに気付いた。母と暮らして、自然に老いを学んだようだ。

母にとって車椅子はタイムマシーンである。今日は自然公園の帰り、昔住んでいた辺りを通った。母には10年ぶりに懐かしい場所である。馴染みの八百屋の主人が白髪になったこと。明治屋のレジのおばさんがすっかり年寄りになってしまったこと、何もかも母には驚きだった。さほど遠くない場所が、年寄りには外国のように遠くなってしまう。もし寝たっきりにでもなれば、町内の数十メートル先でも、二度と見ることがない。

母の女子トイレで、変質者と間違われる。2003年2月13日

自然公園に着くと母は必ず尿意を催す。車椅子で全身が揺れて、腎臓への血行が良くなるからである。

今日も、いつものように母を身障者用トイレへ入れ外へ出た。
丁度その時、私と同じ年配の男性が通りかかった。
「女子トイレに入りやがって、」男は捨てぜりふを残して通り過ぎた。
私はすぐに「介護だ。誤解するな。」と言い返したが、男は.知らん顔で歩いて行く。追いかけて謝らせたいが、母の世話が待っている。こみ上げる怒りを我慢して、母を車椅子に乗せた。

管理棟前の広場で昼食のおにぎりを母に食べさせていると、男は隣のグランドをぐるぐる歩き回っている。運動が終われば、帰り道に私達の前を通る他ない。そこで文句を言おうと構えていたが、男はそれを察し、いつまでもグランドを回っている。
母は相手にするなと言うので、母がおにぎりを食べ終わった後、遊歩道へ戻り、帰路についた。

介護をしていると初めてのことが多い。
殊に女子トイレを母に使わせている時は気を付けたが良いようだ。嫌な男だったが、それに気付かせてくれたことに感謝する。これから母にトイレを使わせている時は、車椅子を手元に置いて、介護者であることを明示しようと思う。

早春賦   2003年2月11日

雨の中、ポンチョの雨具を被せて母を車椅子で自然公園へ連れて行った。公園に着くと、スズメたちが飛んできた。私はいつもと違うフード付きの雨コートを着ているのに、スズメ達には私と分かるようだ。
餌を撒くと一斉に食べ始めた。石畳を小さなくちばしでプチプチとつつく音を聞いていると、いつも幸せな気分になる。

雨に濡れた自然公園は深い山のようだ。木の枝に水晶の首飾りのように雨しずくが綺羅めいているのが美しい。「雨コートが暖かそうですね。」公園の清掃をしている老人が母に声をかけた。ボランテアの老人クラブの人である。彼は私が親孝行で評判になっていると話した。この3ヶ月間、殆ど毎日車椅子を押してやって来るので、そう思われるのだろう。しかし、私は自分の散歩と自然観察を兼ねて来ているので、誉められると照れくさい。

私はこの散歩は作品に良い影響を与えると思っている。そして、毎日自然を眺めているだけで、様々な事を学べる。アマゾン、クリチカ族首長の次のような言葉がある。
「自然がそこにあって、鳥が歌い、森がささやく。なんと素晴らしいことか。あなたたち白人は優れたテクノロジーを私達にもたらした。しかし、テクノロジーは私達を幸せにしない。私達の幸せは自然とともにあり、自然が消滅すれば、私達もほろびる。」
私の気持ちはこれに近い。

ドバト    2003年2月10日

雨である。駅のコンコースで鳩が餌探ししていた。駅の鳩はあまり飛ばず、走り回って巧みに人間達の足をかわしている。その内、ニワトリみたいに地上を駆ける鳥に進化するのかもしれない。

自然公園へ粟やヒエを持参する。私達が着くと、見張りのスズメが私に気付いて舞い降りる。すると次々と4,50羽が寄ってくる。その後、スズメに気付いたドバトもやってくる。

スズメは決して満腹するまで食べない。しかし、ドバトは満腹するまで食べる。そして、もっともっとと餌をねだって私達の後ろをゾロゾロついてくる。まるでドバトの学校の先生になった気分である。
先日、駅近くの焼鳥屋で餌をねだっているドバトがいたが、焼き鳥にされても良いから、とりあえず餌が欲しいのだろう。

しかし、キジバトは餌をねだらない。草むらで1羽で黙々と餌探ししている。私が声をかけると不思議そうに見る。そのしぐさがとても可愛い。

2006年9月17日 (日)

新発見のゴッホの絵。  2003年2月8日

ゴッホの絵が発見され競売にかけられたが、あの絵は極めて劣悪な修正がされている。ゴッホの名誉のために、彼はあのように下手ではない。
特に鼻の下の修正は醜い。絵の素人か下手な絵描きが修正したのだろう。その下手な修正に対して大金が払われるのだから、まことにこの国のコレクターのレベルは低い。更に大金を投じて修正部分を剥がすつもりなら理解出来るのだが。それにしても、あの修正は1950年頃だそうだが、一体誰が加筆したのだろうか。

6600万落札は異常な価格だ。買い上げた広島の美術館はあのまま展示するつもりなのだろうか。ゴッホに対して痛ましいことである。もし私の作品に誰かが手を加え、その劣悪な作品が展示されるとしたら、私は耐え難い。あれは芸術が何でであるかまったく理解していない拝金主義の美術商によるオークションであった。

敢えて言うなら、あの作品は徹底的に原状回復をして、その後にオークションにかけるのが正道である。もし、それが出来ないのなら、美術史資料として公の施設が保管すべきであった。それにしても、中川一政が何故あの作品を所持し隠していたのか、更に謎が深まった。

古いガラス戸と暖簾。 2003年2月7日

赤羽駅前で古い知人に久しぶりに会った。彼の両親とも懇意にしていたが、二人は5年前、相次いで亡くなった。その後、知人はかなりの遺産を相続したようだ。彼はそれを元手に花屋を兼ねたカフェを始めた。花屋の方は開店して暫くは私も利用していたが、遠すぎるので自然に近所で間に合わせるようになった。

私は無沙汰の詫びを言った。彼は意に介せず、「あの花屋は閉店した。」と話した。「今は何もせずブラブラしている。近く、小料理屋を始めるから遊びに来てくれ。」と屈託なく話す。私は小料理屋と聞いて心配になった。素人が突然小料理屋を始めて上手く行く訳がない。内心そう思ったが、必ず遊びに行くから、と言って別れた。

多分、開店1年くらいは私のような知人友人が押しかけて賑わう。しかし、2年目はそうはいかず、潮が引くように客足は遠のいてしまう。私なら、店は知らない土地に出す。狭くて古い店で、昔風のガラス戸に暖簾。ガラス戸をガラガラと開けると暖かい電灯。古びているが磨き込まれた一枚板のカウンター。中に糊の利いた割烹着の40代半ばの人の良さそうな女将。無口だが愛想良く、きぱきと熱燗をする。頼むと白く可愛い手で酌をしてくれる。棚の上に、わざと白黒テレビを置くのも良い。
そのような飲み屋をイメージしながら帰路についた。彼の始める小洒落た小料理屋は多分失敗しそうである。

れれれのおじさんのフンガイ。 2003年2月3日

赤塚不二夫の漫画は好きだった。ご馳走の場面では、決まってテーブルにバナナと骨付き肉が並べられる。あれは我々世代が共有する、戦後から昭和30年辺りまでの金持ちの食卓のイメージである。

今はバナナは安価な果物の代表であるが、戦後暫くは大変高価であった。1本が今の貨幣価値で2000円程した時代もあった。その頃、父が闇市からバナナを買ってきたことがある。大家族だったので、兄姉たちとみんなで一人半分づつに分けて食べた。あの時の香りの高さと美味しさは今も忘れられない。今でも、このくらい高価な果物なら、珍重される程に美味しい果物なのだが、安物として馬鹿にされているのは残念である。

蛇足だが、熱帯の果物は何となくエロチックである。以前、パッケージ用イラストとして、バナナとパイナップルを描いた。しかし、描けば描く程に動物的になって、幾度もクレームが付いた。

もーれつあ太郎の八百屋も良かった。街路灯はお皿みたいなアルミの傘が付いた裸電球で、茶の間に丸いちゃぶ台があって、夜は雨戸を閉めたりした。あの家庭を見ていると気持ちが温かくなる。そう言えば、最近は殆どアルミサッシになって、雨戸を閉めることがなくなってしまった。

 れれれのおじさんのように家の前を掃除している人も見かけない。と思っていたが、まだ近所に一人だけ居た。70歳半ばで、寒い今は丹前からラクダの下着を覗かせ、足袋に下駄で掃除をしている。いつも頭を青々と刈り上げ、見るからに生真面目な老人である。最近その家の塀に、
「ネコ、イヌの糞害禁止。非常に憤慨している。当家主人」
と張り紙がしてあった。あの謹厳実直の老人が駄洒落を書くとは思えない。しかし、張り紙を見ると、つい笑ってしまう。

初午と節分。 2003年2月2日

今日は初午。母の散歩の帰りが遅れたので午後4時に王子稲荷へ出かけた。今日は初午にしては人出が少なかった。三の午まであるから、皆はお詣りを控えたのかもしれない。

 境内では祭囃子が流れていた。和風はやはり心和む。
本殿奥の祠に願い石が置いてある。重さは20㎏程で溶岩のようにざらざらしている。いつものように胸まで上げこの先1年の商売繁盛を願った。それから、山肌の階段を上り狐穴に詣った。この、自然味溢れる山肌は、江戸時代から変わらない。小さな祠が幾つもあって、それぞれに小銭を上げて祈った。

 その後、目白へ行った。目白に新しくオープンした目白オープンギャラリーで彫刻家の安藤泉氏が作品展をしている。氏は鍛金で巨大なキリンや河馬を作る。客は美大の学生が多かった。氏のなぎさ夫人が受賞したお祝いを言い、少し彫刻の話をして別れた。

 池袋キンカ堂で布と紐を買った。昔は全館素材売場であったが今は1フロアのみで布の種類は少ない。
それから東急ハンズで段ボールと木材、そして、ピックPC館でプリント用紙を買った。

 北赤羽で下車した時、明日の節分を思い出した。それで、駅前のライフで魔よけに使う目刺しを買った。ベランダの植木鉢に旧居から持ってきたヒイラギの鉢がある。その枝を切って、目刺しの頭を刺して、魔よけにする。旧居では豆殻をくすべて、鬼を追い払ったが、今の住まいは機密性が高く、豆殻をくすべると煙が抜けず大変である。それで、最近は鬼くすべは止めた。
鬼くすべのパチパチと豆殻のはじける音に煙の香りは懐かしい。しかし、このように行事は時代に押し流されて行くのだろう。

私が上京した昭和38年頃は節分の夕暮れになると町内のあちこちで「鬼は外、福は内」の大きな声が聞こえた。今はまったく聞こえない。

2006年9月16日 (土)

そそっかしい母  2003年2月1日

早朝、腰痛で寝込んでいる姉へ、母は心配して電話していた。
「腰の具合はどう?」
・・・大分良くなったみたい・・・
「それは良かった。でも声が変だよ。風邪でも引いたのじゃない?」
・・・風邪は大丈夫・・・
そのような会話がひとしきり続いたようなのだが、母は突然、電話口で謝り始めた。そして今度は他人行儀に世間話を続けて、丁寧に挨拶して電話を切った。
「本当にそそっかしく、どうかしてるんだから。喋り口調が晃子に似ていたものだから、間違えちゃった。」
母は笑いを押さえながら言った。電話した相手は姉ではなく、知らない人だったようだ。しかし、会話は巧く符合して、ごく自然に続いてしまった。母は大雑羽だけでなくそそっかしい性格でもある。私は繊細だが、そそっかしい性格は母から受け継いでいる。

 散歩殻帰ってから、洗濯をした。洗濯機は15年前から使っている2漕式。先日、何となくスーパーの電気器具コーナーを覗いたら、どれも1漕式の全自動になっていた。と言っても、我が家の2漕式が壊れた訳ではない。この機種は頑丈で、当分壊れそうにない。
2漕式は洗濯をしながら絞り機を使えるので大変重宝する。たとえば、すすぎの時、神経質にすすぐ必要のない雑巾等は早めに出して絞る。そうやって最後に綺麗にすすぎたい下着やタオルを絞る。

洗濯槽にはいつも石鹸水を満たしてある。母はそれに片っ端から汚れ物を放り込む。母は若い頃から大雑把で、食器用布巾と雑巾を一緒に放り込んだりする。いくら言っても聞かないので、いつの間にかすすぎに時間差を設けた洗濯方法を考えついた。

2漕式は絞り機に水を溜めないのでカビが少ない。今も新品のように真っ白で気持ちがよい。2漕式は日本国内向けには出荷していないようだが、東南アジア向けの洗濯機は今も主流のようだ。

神楽坂の風の音。2003年1月30日

自然公園の日溜まりに母を休ませ、風の音聞いていたら、ふいに祖母が死んだ日を思い出した。
祖母は私が28歳の時母と一緒に看取った。ついでに言うと父は私が38歳の時に看取った。兄弟は多いのだが、それぞれに家庭内の折り合いが邪魔をして引き受けられない。それで、「俺がまとめて面倒見る。」と私は啖呵を切ってしまった。後でとんでもないことを引き受けてしまった、と後悔したが後の祭りだった。

祖母は5月1日の爽やかな晴の日に死んだ。ツツジが満開で"今日は死ぬのに良い日だ"のインディアンの言葉にぴったりの日であった。遺骨は紅型の艶やかな風呂敷に包み、母と長兄が九州の菩提寺へ運んだ。風に揺れる新緑の木陰道を、何度も振り返りながら去っていく母と兄の後ろ姿が今も目に浮かぶ。兄の姿を見たのはそれが最後で、翌年の10月、兄は42歳の厄年に急死した。

父が死んだのは6月1日。訪れた葬儀屋が風の強い晴れた日には人がよく死ぬと話していたが、その通り、前日から、晴れた空に轟々と風が吹いていた。

しかし、私は風の音が好きである。風の音を聞くと、子供の頃の裏山や海辺の松林を思い出す。
だから、自然公園で休んでいる時、いつもぼんやりと風の音を聞いている。やがて母は逝くだろう。その時、風の音を聞きながら、杖をついて、そろそろと歩く母の後ろ姿を思い出すかもしれない。

 午後から、2年ぶりに神楽坂のラボへ絵の撮影に行った。少しの間に街の様子はかなり変わっていた。いつも客が入っていなかったレストランは、エスニックの調度品屋に商売替えをしていた。しかし、相変わらず客はいない。同じ主人がショウウインドウ越しに通りを暗い顔で見ていた。

江戸時代から続く古刹の木々の茂っていた境内は、霊園に変わっていた。
デジカメの影響で銀塩フイルムが減少し、ラボもまた縮小を重ねていた。近く新橋に移転すると、顔馴染みの社員がこっそり話した。昔は来客が引きも切らず、受付の女の子が7,8人いたのに、今は古株一人だけになっていた。
ただ、帰り道にいつも眺めた苔むした古いビル壁は変わらずそこにあったが、いつまでもあるとは思えない。

油絵額と飲み会。 2003年1月27日

母はいつものように歩けなかった。このところ、日に日に体力が付いていただけに、がっかりした。しかし、これが母のおかれている現実なのだ。年と共に体力が弱って行くのは自然だが、それを受け入れるのは難しい。

自然公園で小さな子供達が遊んでいた。無邪気な子供の笑顔は可愛く、命に溢れている。リハビリをしている老人達と生き生きとした子供、この対比は共に素晴らしい。眺めていると、何故か胸に熱いものがこみ上げて来た。

 午後は出かけた。日本橋三越で知人が漆展をしていて、会場に絵の仲間が集まることになっている。
電車の乗り継ぎがスムースで、赤羽から会場へ25分で着いてしまった。予定時間より早く、まだ他のメンバーは着いていない。漆工芸家のN氏は接客で忙しいので、私は他会場を見ながら時間を潰した。
隣の会場の作品は1点で私の作品全部が買える値段であった。その隣では、つまらない小さな平山画伯のリトグラフが120万もしていた。これではお札の印刷と同じである。

会場脇に小さな額縁屋があった。中に良い油絵額が飾ってあったので、衝動的に6点を注文した。そうこうしているうちにメンバーのMさんがやって来た。相変わら可愛くてスタイルが良い。
「篠崎さん、仕事の話があるのだけど。」
挨拶もそこそこに、仕事の話になった。彼女の取引先画廊からの4人展参加への打診である。私は去年、企画展を2つ断った。絵本制作で気がせいていた所為で他意はないが、せっかくの好意を無にして後味が悪かった。話しを聞きながら3度目は無いと思った。場所の大阪は以前から仕事で縁が深い。その上、偶然に彼女の話の前に油絵額を発注している。私は4人展への打診は天命かもしれないと思った。

メンバーが集まったので、銀座へ出た。しかし、予定していた1丁目の中華料理屋は予約で埋まっていた。マリオン前の可口飯店は順番待ちの行列。それでニュー東京1階のビアレストランにした。酒席での話題はもっぱら稼ぐ方法に終始した。

知らない人からお菓子を貰った。  2003年1月22日

母の散歩の帰り道に見事なピラカンサスがある。房のような赤い実にカケスが群がっていた。その実はカケスの好物のようだ。自然公園の手摺り脇に、ピラカンサスが実生で育っているが、カケスが犯人だったようだ。

母の車椅子を押すようになって、見知らぬ老人からよく挨拶される。母も誰彼無く会釈する。時には挨拶で済まず長話になって、見知らぬ人の家庭の事情まで知ることになる。もしかすると、車椅子の親子は良い人に見えて、安心して声をかけられるのかもしれない。

そのように何度も同じ人に会っていると、私たちを道筋で待っていて、菓子類を手渡される事もある。母はその気持ちが嬉しいようで、甘いものは避けるように指示されているが、有り難く受け取っている。
先日友人にそのことを話したら「知らない人から、食べ物をもらうものではない。」と注意された。確かに、今の世相では危ない事だ。

礼節は老人の特性のように思われているが、今の老人は若い頃から礼儀正しく親切であった。昔はそういう時代である。だから、今の若者たちが老いた時、同じように礼節をわきまえた老人社会が出来上がる訳ではない。むしろ、老人特有の偏屈さばかり目立つ、自己中の嫌な老人社会になるかもしれない。

季節の変化を待つ母。 2003年1月20日

母は腰痛を除けば元気であるが、89歳の年齢を考えると余命はあまりない。たとえ今年一杯で命が尽きたとしても仕方がない。
この2ヶ月、母を自然公園へ連れて行き、歩かせるのが日課になっている。
自然公園には色々な草木がある。母は草木が芽吹き、桜が咲く季節を心待ちにしている。
今の様子では、桜も初夏の新緑も見ることができるだろう。しかし、母は夏の猛暑に体力を消耗し、秋の彼岸花を見る事はできないかもしれない。

先日、母を整形外科へ連れて行った時、治療の待ち時間に用事を済ませに家に帰ったことがある。母のいない住まいは、うら寂しく広く感じた。「咳をしても一人」誰の句であったか、やがてそれが永遠になる日が必ず来るのである。
だが、人生は闇だけではない。人は人生の中で様々なものを失いつつ様々なものを得る。闇のあとには夜明けが来る。反対に、燦々と輝く真昼であつても、やがて日が沈み夜が来る。人生は一所に留まる事は決してない。生々流転するから人生が面白いのである。

2006年9月15日 (金)

役に立たないものは美しい。     2003年1月20日

今日は春の風を感じた。寒い間は寒風から地面を守っていた枯れ草が倒れ始め、地面まで陽光が届いていた。枯れ草は厳冬期は立ったまま地面を暖かく守っている。そして、春間近に倒れて土地を肥沃にする。実に巧みな自然の摂理である。

冬の木々の木肌の色も不思議だ。ミズキやニガイチゴの紅色。柳のオリーブグリーン。この多彩な美しさは何故なのだろう。グリーンは葉緑素だと理解出来るが、紅色は直射日光の紫外線から守っているのかもしれない。だから、夏になり、幹が木陰に覆われると、紅色は色褪せて来る。

しかしそれ以上に、美しいことに大きな意味があるのかもしれない。例えば、青トカゲの子供は輝くような瑠璃色である。目立っていて補食されやすいと思うが、彼らは自然公園で大いに繁殖している。それは警戒色であると専門家に言われそうだが、あまり実用的に自然を見るのは、間違っている気がする。

役に立たないから湿原を畑に開墾する。役に立たないから古い建物を取り壊しビルを建てる。
その結果が、人を幸せにしたとは思えない。役に立たなくても良いものはある。珍しい切手、古い陶器、眺めているだけで楽しい。私も役に立たない絵を描いている。役に立たない老人や身障者たちも、彼らがいることで、私たちは知らず知らずの内に勇気を貰っている。
世の中は単純には分からない。複雑で曖昧だから良いのかもしれない。

安納芋と柔らか麺と順天堂さん。 2003年1月18日

母を整形外科へ連れていった。ペインクリニックは効果が持続し始めて1週間から2週間毎に延びた。治療は1時間程かかるので、私はその間、絵のイメージをメモ帳に描きながら待つことにしている。

患者は殆ど老人である。今日は60代の裕福そうな女性が入って来て、「順天堂から来ました。」と、いきなり大声で言った。一瞬、病院関係者と思ったが新しい患者である。順天堂で紹介状を貰って来たらしい。彼女はそれが嬉しいらしく、受付とのやり取りの中でも、何度も「順天堂」を夾んだ。

やがて彼女の診察番が来た。受付はうっかりしたのか本名ではなく「順天堂さん」と呼んでしまった。彼女は更に嬉しそうに診察室へ入っていった。
「私は忙しい人だから、先週に順天堂さんでレントゲンを沢山撮ってるの。だから、注射だけにして下さい。」診察室から、先生に無理を言っている声が聞こえた。このように、面白い患者が現れると、退屈が紛れて楽しくなる。

 帰宅して、お昼はチャンポンを作った。
私は麺は煮込んだ方が好きである。近年、シコシコ麺ばかりになってしまったのは残念である。麺は適当な柔らかさがあった方がダシが絡んで美味い、と私は思っている。私は南九州育ちだが、昔はシコシコ麺ではなかったように記憶している。あれは、スパゲッティの影響ではないかと思っている。
先日、讃岐うどんの名店で食べたが、強烈なシコシコ麺でダシが上滑りして不味かった。それはラーメンも同じで、有名店に入ったら、堅過ぎて生に近いものを親父が「うちのは秒刻みで一瞬湯通しするだけだから美味いよ。」と自慢げに出されたのには驚いた。美味いか不味いかは客が決めるものだ。多様性を認めない文化はやがて衰退する。麺も客の好みに合わせてシコシコから柔らか麺まで色々あった方が良い。

同様にサツマイモとカボチャもホコホコが美味いとされている。私はカボチャは黒皮の滑らかな口当たりのが、サツマイモはねっとりしたのが絶対に美味いと思っている。
私の郷里の南九州日南市では芋は今もねっとりタイプが主流である。東京では主産地の種子島安納の地名を取って安納芋と呼ばれている。私の郷里では、その透明な黄金色の形状が鬢付け油=日本髪を固める為の固形の油=に似ているので、ビンツケ芋と呼ばれていた。
北区十條に、このビンツケ芋で作った大学芋を店頭で揚げている店がある。バリッと揚がった皮をかみ砕くとクリーム状の中味が現れ実に美味い。これが流行のホコホコ芋だと粉っぽくて不味い。

しかし、このビンツケ芋は腐りやすく、日持ちがしないので東京の八百屋には嫌われる。
最近、安納芋の名で有名になったおかげで、最近では時折スーパーの店頭に並ぶようになったが、値段が高い上保存方法が悪く痛んでいる物が多い。買う場合は、斑点の無い綺麗な品を選ぶと良い。売り手に商品知識がなくて、これではせっかくの名品が誤解されてしまう。困った事だ。私は今も、日南市大堂津の知人が送ってくれるので、普通に食べている。

女畑の灌漑用水路工事 2003年1月16日

 パソコンをつけるとHappy birthday!の表示が出た。メールを開くとniftyから誕生日おめでとうが届いていた。それで「今日は何の日だ?」と母に聞いてみた。
「天皇陛下の前立腺切除の日でしょう。」母は変な事を記憶している。もう一度聞くと「成人式は終わったし」と考え込んだ末、ようやく私の誕生日だと気付いた。

 私は昭和20年の厳冬に生まれた。敗色濃厚な当時、建設省技官をしていた父は九州日田市山中の女畑(おなごはた)で食料増産の為の用水路隧道工事の指揮をしていた。
1月16日は祖父の命日である。臨月の母は祖父の法事の為、前日から日田市内へ下山していた。しかし、陣痛が始まり、母は急遽日田市豆田にある産婦人科に入院した。そして翌日の16日夕刻に私が生まれた。この書き込みをしながら、生まれた場所を地図検索してみると、名前が変わっていたが、産婦人科病院は今も同じ場所にあった。

 用水路建設は難工事で多くの徴用朝鮮人が使われていた。
と書くと強制連行に過酷な労働と思われるが、母の話ではかなり違う。---勿論、たこ部屋による過酷な強制労働が存在したことは事実であるが。

母の記憶では朝鮮人労働者へは、当時の一般日本人より十分な食料が配給されていた。母はしばしば、労働者宅に食事に呼ばれた。食事内容は山深い山中にも関わらず、海の魚等を潤沢に使ったものだった。それは監督官への接待の為、無理をしていたのだ、と私が反論したことがある。しかし、母は強く否定した。母は母親として、彼らの家族にとけ込んでいた。家族ぐるみの付き合いの中で、事実は容易に見えていたくるものである。

彼等は砂糖や肉類も潤沢に持っていた。それで母は砂糖や牛肉を分けてもらっていた。意外に思われるが、地元農民たちも、自分たちの灌漑工事の為に働いてくれる彼等を大切にした。女畑は米が出来ない土地である。彼等は砂糖や米等と物々交換で牛を手に入れ、密殺しては母に牛肉を差し入れしてくれていたようだ。

彼らへ正当な扱いができたのは、国家直轄の重要工事で、朝鮮人労務者への労働規定を遵守していたからである。しかしこれは、極めて例外的な事例かもしれない。

戦後も工事は続き、我が家は彼等の差し入れに助けられた。しかし、父は上司と喧嘩して辞職してしまった。それで私の1歳の誕生日前に、家族は食糧事情良好な南九州の小さな港町日南市大堂津へ引っ越した。

その後、世渡り下手な父のおかげで、私達の生活は激しく乱高下し続けた。時折、父が役人を続けていてくれたらと母はぼやいたが、もしそうなっていたら、恐らく私は絵描きにならず、平凡なサラリーマンになっていたと思う。

女畑の感慨用水路工事は昭和35年にようやく完成し、米作が可能になった。その時、女畑の村長から父へ錫製花瓶と感謝状が届いた。そして、それらの記念品は幾度かの引っ越しで紛失してしまった。

ワープロ専用機 2003年1月14日

イソジンのCMで、一人暮らしの女の子が帰宅すると「お帰り」と河馬の親子が声をかける。女の子は暖かい気持ちになる。私はそのは気持ちが良くわかる。たとえ河馬でも、誰かが家で待っていてくれると嬉しい。
ホンダのロボット-アシモ君をニュースで見ながらそのCMを思い出していた。アシモ君は簡単な会話なら律儀に答えてくれるし、挨拶も出来る。仕草も自然で可愛い。あと10年もすればアシモ君も安くなって、もっと高度な会話が出来るようになるに違いない。そうなると、アーとかウーとかしか言わない夫とか、ろくに話も聞いてくれない妻よりも、ロボットを愛でる者が多く出てきそうな気がする。

  いつものように、母が歩く後ろを私が車椅子に乗ってついて行くと、「交通事後ですか」とすれ違った人が気の毒そうに聞いた。老母が私を介護していると思ったらしい。ヨタヨタやっと歩いている母に車椅子を押せる訳がないのだが、そそっかしい人である。もっとも、母はとても喜んでいた。
「有り難うございます。この年で苦労ばかりさせられて・・・」母は適当に答えていた。すると、その人は更に気の毒そうな顔をした。

 今日は暖かいというより暑かった。汗で背中が濡れ始めたのでシャツ1枚になった。梅が開花したとニュースで言っていた。明日は赤羽台団地の梅公園を回つてみようと思う。日溜まりの公園なので、もっと開いていると思う。

 昔ワープロで打ってフロッピーに保存して置いた文書をパソコンへ移した。MS-DOS機能のないシャープの書院のデータは、カシオのダビンチでMS-DOSに変換しなければならない。古いシステムでの変換作業は大変時間がかかる。そのカシオのダビンチは20万の定価で書院は15万程だった。当時はワープロシステムはパソコンが良いか専用機が良いか、論争の最中であったが、パソコン全盛の今思うと隔世の感がある。
気に入って二世代に渡って使っていたシャープの書院は「こころ」と入力しても「心」に変換してくれなくなったのでカシオに買い替えた。たとえ機械でも、心がなくなると寂しいものだ。

2006年9月14日 (木)

乳母車と車椅子   2003年1月11日

 この数日の暖かさで、自然公園の厚く氷結していた池はすっかり溶けてしまった。冬至から30分は日が長くなったように感じる。そうやって、すぐに春がやって来るのだろう。

昨夜は「高校教師」のリニューアルを見た。やはり旧作へは及ばない。旧作、真田広之--羽村先生の生真面目さ、桜井幸子--二宮繭の母性に似たひたむきさ、それらの設定は今の時代にはそぐわないのかもしれない。しかし、別の作品として見れば楽しめた。

年賀状は今日2通が届いた。これだけ遅れて届く年賀状は逆にお義理ではない。その1通は飼い猫が死んで年賀状を書く気力が湧かなかった、との詫び状だった。その気持ちはとってもよく分かる。もう1通は身内の不幸による遅れであった。

 自然公園で母が歩いている間、私が車椅子に乗ってついて行く。母の車椅子は介護車で自走できないので、私は足で地面を引き寄せるように進む。平地はそれで楽に進むが、少しでも上りになると大変である。

そのように私が車椅子に乗って母の後ろをついて行くと、二歳程の赤ちゃんがよちよち近づいてきた。アブアブと、どうやら乗せろと言っているらしい。傍でお母さんが困った顔をしている。
「いいですよ。」私はその子を車椅子に乗せて、少し動かしてあげた。
赤ちゃんは大喜びで、もう降りないと言う。お母さんは無理にだっこして母に謝っている。
「こんなもは乗らないで済む方が良いのよ。」母は笑いながら、お母さんと赤ちゃんに話していたが、赤ちゃんに分かるはずが無い。母親は、恐縮しながら、去って行った。

子供に車椅子は大きな乳母車に見えるようだ。乳母車に乗った子供とすれ違う時、子供は決まって、どうして大人が乳母車に乗っているんだ、と言った目で母を見る。その憮然とした表情がとても可笑しい。

五体投地とプリン  2003年1月7日

 七草である。松飾りを外して七草粥を作った。
正月の気配が消えて、ほっとしている。その一方、直に冬が終わるかと思うと寂しい。春はそれなりに好きなのだが、時間の早さにうんざりしている。春が来れば直ぐに夏、そしてあっという間に秋が来て年末年始の慌ただしさを嘆く。しかし、これは洗濯や料理と同じようなもの。繰り返しが続くことに、喜びがある。思い煩わず、ゆったりと時の流れに身を任せていれば良い。
そんな事を考えていたら、ふいに五体投地に一生を捧げるチベットの巡礼者の姿が浮かんだ。あの映像を見ていると、彼らの思い切りの良さが羨ましくなる。

 今朝は風が無く寒さが緩んだ。西の方角に赤みを帯びた富士が見えた。母が定期検診で老人センターへ行く日である。無線タクシーを呼び、姉に連れて行って貰った。

母を送り出して二度寝をしたら、お昼近く、宅急便で目覚めた。荷物は九州からの椎茸である。肉厚の良品で、すぐに冷水に浸けて冷蔵庫にしまった。こ明日はこの椎茸と高野豆腐を煮る。

 知人のA子から飲み過ぎてプリンが食いたいからレシピを送れ、とメールが入った。彼女は元は絵描きであるが、今はタレントをしたりシャンソンを歌ったりしている。どんな生き方をしても、練馬の裕福家のお嬢さんなので暮らしに困らない。

私は昔プリン作りにはまり、毎日毎日プリンを作っていた。プリンは卵と砂糖と牛乳にバニラ、実にシンプルな組成であるが制作は極めてデリケートで奥が深い。私の方法は、通常の卵2個へ牛乳200mlの割合に対し、更に卵2,3個分の卵黄を加える。そうするとこくのある出来になる。甘みは果糖を使い爽やかに仕上げる。カラメルはもうもうと煙が上がるほど加熱して苦く仕上げる。バニラは出来るならバニラビーンズを使うが、こだわりはなく適当である。食べる時はラム酒かプランディーを少量加える。これは実に美味い。市販の高級品より私の方が更に美味い。

食べ物と詩集   2003年1月5日

母を自然公園へ連れて行った。今日は寒い風が吹き、年寄りは殆どいなかった。帰宅すると日曜なのに年賀状が届いていた。これで主な差出人は出揃った。明日以降に届くのはお義理のものばかりである。

 その中に、昔のガールフレンドからの結婚報告が4通あった。殆どが、二人でケーキにナイフを入れている写真である。新婦は皆才色兼備だが、新郎は間抜けに見える。これは娘を嫁がせる父親の心理に近い。

 私は独り身なので、かえって結婚について考える。独り身では強い気持ちがないとくじけそうになるし、それで良い事は少ない。やはり、二人で生活する方が自然に年を取れそうである。

 午後、池袋西武の詩のコーナーへ行った。「私は最後に残ったお金で心を満たす詩集を買うだろう。決して食べ物を買ったりはしない。」と、気障なことを考えながら、アメリカの現代詩集と水野るり子の「ヘンゼルとグレーテルの島」を衝動買いした。

馬鹿馬鹿しい考えだ。最後に残ったお金を詩集に使ったりはしない。昔、山で遭難しかけた時の空腹感は耐え難いものだった。だから、大切なお金は食べ物の為に使う。

まくわ瓜とメロン 2003年1月4日

お昼から母を散歩させた。昨日と打って変わって穏やかな好天で、自然公園はいつもより人出が多かった。
母はいつもより20メートル多く歩いてくれた。

 夕刻、新宿の世界堂へ行って、横長の額を特注した。画家仲間はこの店の額を二流と言う。私はこだわりが無いので、気に入った額があれば買う。
ついでに画材も補充した。量が多過ぎて腕が抜けそうである。画材は十分にストックしておくと気持ちが落ち着く。絵描きにとって大変なのは、絵が描ける生活環境を作ることにある。大半の画家はそのことに腐心している。

 帰宅して頂き物のメロンを食べた。食べ頃は今日指定であったが、暖房の所為で少し熟れすぎていた。
私は種の周りが好きである。これをざるにあけて裏ごししてジュースを絞る。メロン1個でコップ半分程取れる。このジュースにはメロンのエッセンスが集中していて香り高く濃厚な味である。

 子供時代はメロンは高級過ぎて、姿を目にする事も少なかった。代わりに、まくわ瓜はよく食べた。これは果肉の味が薄いので、種と一緒に食べていた。そうすると濃厚なジュースが果肉に絡んで、一段と美味くなった。まくわ瓜の種は堅いが、それで腹を壊したことはない。しかし、西瓜の種は絶対に食べなかった。母に西瓜の種を食べるとお腹の中で芽を出して実を付けると脅されていたからである。

 戦前、メロンは貴族が趣味の園芸で作ったものを千疋屋あたりが拝み倒して手に入れて売っていたらしい。だから、庶民の口に入るものではなかった。戦後、進駐軍の要請で静岡の農家が作り始め、一般にも出回るようになった。それでも私達が口に出来たのは、デパート食堂のクリームパフェの頂上に、サクランボと並んで麗々しく飾ってある紙のような薄切りである。私はサクランボとメロンを最後に残して、宝石のように味わった。

 しかし、今でもまくわ瓜が好きである。店頭に黄金色のそれが並ぶと買わずにはいられない。但し、今は種は食べない。種の回りをジュースにして、それに果肉に絡めて食べる。

結膜下出血 03年1月3日

昨日と打って変わって小雪が舞っていた。赤羽駅前に出て豆乳を買った。昨日、結膜が出血したと書いたが、原因は年末から豆乳を切らしていた所為だ。大豆には血管を強化する働きがある。それで豆乳を飲み始めたが、その間5年、殆ど出血しなかった。

夕刻、上越から上京したSさんに会うため池袋へ出た。場所はホテルメトロポリタンである。行ったことはないが、東京芸術劇場の先という認識はある。しかし、辿り着いたらしいのに看板がない。あちこち彷徨した末、ホテルらしき建物を見つけ、中の人に聞いて、やっとそこだと確認できた。
 
Sさんは東京に住むお嬢さんと先に着いていた。食事に女性がいると場が和む。まして、妙齢の可愛らしいお嬢さんである。いつもならはしゃいで失策してしまうのだが、結膜出血がブレーキになりうまく抑制できた。
中華をご馳走になった。正月、人に会うのは久しぶりの経験である。正月の間、友人達は家庭サービスに励み家に閉じこもるので、いつもは寂しい思いをするのだが、今年は楽しい正月になった。

帰り、雪は雨に変わっていた。車椅子は雪に弱い。明日の散歩をどうしようかと悩んでいたので安堵した。
車椅子を押すようになって雪への認識が変わった。

生々流転。  2002年12月31日生々流転。  2002年12月31日

大晦日の湯島天神の大祓で、旧年の穢れを払い清めた。帰りアメ横へ回ると、歩けないほどの人混みであった。正月用品は総て買いそろえてあるので、何も買わず通り抜けた。

帰宅してから、おせちに使う春菊と水菜を茹でた。他のおせちは総て昨日までに作り置いてある。
7時、紅白をちょっと見てからアニメ「ドラえもん」に変えた。ドラえもんはお母さんから好物のどら焼きを貰って喜んでいた。彼の何でもポケットにはどら焼きだけは入っていないようだ。
アメ横の雑踏で10円拾った。来年は良いことがありそうだ。


2003年正月2日
正月2日目。母を自然公園へ連れて行くのに玄関を開くと冷たい風が吹きつけた。しかし、素晴らしい快晴で真っ白な富士が見えた。
散歩道の地面が湿っていた。日陰に少し雪が残っている。昨夜、雪が降ったようだ。
車椅子を押しながら初夢を思い出そうとした。楽しい内容だったことは漠然と思い出されるのだが、どうしても思い出せない。

正月の自然公園は気持ちが良い。赤紫に紅葉して石垣に張り付くアザミ、金色に光る野バラ、青空に端正に紅色の枝を広げるミズキ。最近、冬の自然の美しさに気付いた

九州の知人から届いたポンカンを、母に持たされて来た。公園の車椅子用トイレを使った後、管理事務所のボランティアの老人達へ渡す為だ。母は用を足した後「お世話になっています。」とポンカンを渡した。お礼は必要ないことだが、母には好きにさせている。老人達は律儀にお礼を言って恐縮していた。この世代の日本人は付き合っていて礼儀正しく気持ちが良い。

母はいつもより長く歩いてくれた。このまま元気を回復してくれると有り難い。 
帰宅してからビデオの「七人の侍」を見ながら仕事をした。仕事を頑張っていると、左目結膜が出血して真っ赤になった。これは結膜の細い血管が何かのはずみに切れるもので、視力には影響はない。しかし、人には重症に見え心配されるので、説明に困る。明日からは目隠しにサングラスを使うことにする。血液は1週間程で吸収される。母も同じ体質で、私に遺伝したようだ。

結膜下出血は、次の記事「結膜下出血」に続く。